戦後のファイバーアート界を牽引!
多摩美テキスタイルデザインの源流を創った
わたなべひろこ名誉教授にインタビュー
1957年多摩美術大学図案科(平面)卒業後、フランス留学を経て多摩美術大学に着任したわたなべひろこ先生。現在はNPO国際テキスタイルネットワークジャパンの代表として、後進の育成にも力を入れています。第一回目となる今回の「卒業生インタビュー」では、同学科卒で親交の深い深津裕子教授(校友会事務局長・リベラルアーツセンター教授)がわたなべ先生のお話を伺いました。
わたなべ ひろこ(Watanabe Hiroko)
1957年多摩美術大学卒業 新制度1期生
1959年多摩美術大学着任
1957〜59年フランス留学
1964〜65年フィンランド留学
2007年シルクロードプロジェクト実施
国際トリエンナーレ、ビエンナーレ等の審査員
国際展のキューレタ等、文化交流を務める
「Textile Art Studio」1975年 設立
深津:最初に、東京で会社を立ち上げた経緯や、隈研吾さん(1954-)が設計されたスタジオについてお伺いできますか?
わたなべ:私が学生の当時、女性はどこの会社にも就職できないっていう時代で、だから自分で仕事を持たなきゃならず、自分でデザインルームっていうか、会社を設立して仕事を始めざるを得なかったんですね。たまたまその時にテキスタイルというものの重要性を知ったもんですから、テキスタイルのお仕事をしようと思ったんです。
他にもいろんな分野があって、伝統的な着物なんかを中心とした世界は京都が実権を握ってて、ファッションの方は代表的な会社やデザイン部門が全部大阪にあったんです。
その二の舞をしてもしょうがないので、何か彼らがやらない新しいことをやらなきゃいけない。そう考えた時に、当時は畳の生活から椅子の生活に移っていて、新しいカーテンとかカーペットとか椅子張りとか、そういう今までにないテキスタイルのニーズっていうのが生まれたんです。東京でやるならば、その新しい分野でなければ意味がないと思って、ジャパンインテリアの設立に続いて1975年にインテリアテキスタイルを取り扱う「株式会社 Textile Art Studio」を設立したんです。会社設立の前にも学生時代に「わたなべひろこデザインルーム」を立ち上げてはいました。
当初は、それをどういう風に動かしていったらいいかと考えました。有名な建築家とか、ゼネコン、それからデパートの外商、そういうところを目当てに仕事を売り込みに行ったんです。最初は断られ続けたんですが、あの手この手で何度も足繁く通っていろんなアイデアを持ってですね、会社を回ってたんです。
そんな中、転機になったのが鹿島建設だったんです。たまたま重役室のカーテンを取り替える時に私は自分でデザインやプリントしたものを取り付けたんです。そうしたら来るお客さんが皆感心して、面白い面白いって褒めてくれたそうです。そんなことをきっかけにしながら、仕事が少しずつ進むようになったんです。
そんなふうにして、いろいろな建築家の先生とか、関係者との交流も生まれていきました。以前の(二子玉川駅前にあった)アトリエ(Textile Art Studio)は建築家の宮脇檀先生(1936-1998)にお願いしたんですけど、この今のアトリエは隈研吾さんにお願いすることができました。宮脇先生は隈先生が東大時代に習った先生らしく、隈先生は「先生の後の仕事を僕引き受けるよ」とおっしゃってくださいました。ちょうど隈先生がオリンピックのスタジアムを手がける直前だったと思うんですけど、タイムリーな時期に受けていただけたのは本当にラッキーだったと思います。
男性優位な社会を跳ね退けて志した美術への道
深津:ちょっと昔に巻き戻るかもしれないですけれども、多摩美に入学したきっかけを教えていただけますか。
わたなべ:私が子供だった時分は、子供であっても男女は別々の席に座らされるような時代でした。ですから、小学校の頃から男女が組になることもありませんでした。また、戦時中には東京の家も焼かれ、父も戦地に招集され生きるか死ぬかといった状態で、母の里に疎開したり香川県の軍隊のある街に小さな家を借りて過ごしたりもしました。
戦後には、生活を立て直すために父の田舎の四国で生活していたんです。ところが、四国っていうのは、九州に次いで男尊女卑の強いとこなんですよ。それでね、兄と私とでは待遇が違ったんですよ。それで私、母に訴えたんです。「私は女に生まれたくて生まれたわけじゃないのに、どうしてこんなに違うの。」って、不服を言ったんですね。
そしたら母は、「私もそう思います。あなたの言うことはもっともです。だけどね、これから世の中が変わりますよ。だから勉強しなさい。」と言ったんです。続けて、「いくら口先で男女同権って言っても、長い間、女性は男性の庇護の下に生きてきてるから、本当の意味で精神的な自立ができてない。だから精神的な自立をちゃんと考えなさい」と。もう一つは、「経済的に自立ができなければだめです。」とも言われました。
これは、「自立できるだけの手に職をつけなさい」っていう母の教えだったんです。
それで、兄が医者を目指していたので、女医っていうのもいいなと思いまして、兄の友人にお願いして医学部を見学しに行ったんです。その時、死体の解剖まで見せて下さって、医者の仕事って素晴らしいなと感じました。だけど同時に、命を扱う仕事は自分に向かないっていうのをしみじみ悟ったわけなんです。
じゃあ、次にどうしたらいいか考え直したんです。その頃にね、デザインという新しい概念が世の中に入ってきたわけです。男の人の因習も少ないんじゃないかなって。
それで私、女子美術大学を勝手に受験したんです。だけど、それが父に見つかりましてね。父は、自分の後継者が欲しかったのもあって、自分の目の適った男と結婚させるのが私の幸せって思ってたわけです。美術学校なんて行ったら嫁の貰い手がなくなるということで、許してもらえなかったんです。後から分かったんですけど、父はうちの娘が受けてるんで落としてくれと学校に頼んだほどなんです。
それでも、やっぱり大学で勉強をしなきゃいけないと思ったんですけど、共学はダメで。そんな中で許されたのが、その当時の男の人に人気のあった日本女子大。そこならいいって言うんですね。仕方がないから、日本女子大に入って一生懸命真面目に勉強してたんですけど、3年になる直前ぐらいでしたかね、たまたま三越で多摩美の学生展を見たんですね。それを見たらもう感動しちゃいましてね。素晴らしくて、「多摩美に入ろう」と思ったわけですよ。
ただ、父に知られたら、また大変なので、黙って受けたんです。そして合格後に、日本女子大に退学届を出しました。けれども恐らく父に勘当されるだろうと思い、神田で住み込みの仕事も同時に見つけて、多摩美に通う準備をしました。
手続きを全て終えた後、父に多摩美への入学を頼んだんです。案の定、父からは「僕はしらん」と跳ね除けられましたが、母がなだめてくれて、入ることができたんです。
当時、上野毛にあった多摩美の校舎は戦争で全部焼けていて、専門学校から新制大学に移行する時だったんです。大学といっても、四年制ではなく短期大学でした。デザインって言葉もまだなく図案科だったんですけど、素晴らしかったですね。お絵描きを習うんじゃなく、杉浦非水先生(1876-1965)(多摩帝国美術学校校長、図案化主任、グラフィックデザイナー)から直接指導を受けたり、建築は今井兼次先生(1895-1987)、インテリアは剣持勇先生(1912-1971)、グラフィックは山名文夫先生(1897-1980)、舞台装置は吉田謙吉先生(1897-1982)、工芸は渡邊素舟先生(1890-1986)などなど。特に多摩美に戻って来るきっかけになった霜田静志先生(1890-1973)の心理学の授業があったんです。もう本当にね、素晴らしい先生方が揃っててね、ウハウハだったんです。
vol.2~「テキスタイルとの出会いから渡欧へ」「染織デザイン専攻の設立と目指した教育」 はこちら
vol.3 〜「デザイナー/アーティストとしての取り組み」「多摩美退職後の活動 シルクロード横断プロジェクトとギャラリースペース21」「多摩美生への言葉」はこちら