【特集記事】第1回 卒業生インタビュー わたなべひろこ先生vol.3

2024年11月26日

戦後のファイバーアート界を牽引! 多摩美テキスタイルデザインの源流を創った わたなべひろこ名誉教授にインタビュー 1957年多摩美術大学図案科(平面)卒業後、フランス留学を経て多摩美術大学に着任したわたなべひろこ先生。現在はNPO国際テキスタイルネットワークジャパンの代表として、後進の育成にも力を入れています。第一回目となる今回の「卒業生インタビュー」では、同学科卒で親交の深い深津裕子教授(校友会事務局長・リベラルアーツセンター教授)がわたなべ先生のお話を伺いました。 わたなべ ひろこ(Watanabe Hiroko) 1957年多摩美術大学卒業 新制度1期生 1959年多摩美術大学着任 1957〜59年フランス留学 1964〜65年フィンランド留学 2007年シルクロードプロジェクト実施 国際トリエンナーレ、ビエンナーレ等の審査員 国際展のキューレタ等、文化交流を務める https://www.youtube.com/watch?v=H7K_oUF0YoM デザイナー/アーティストとしての取り組み 深津:先生にはテキスタイルデザイナーとしての活躍と、ファイバーアーティストとしての活動の二つの軸があるかと思いますが、それについてお話を伺えますか? わたなべ:先ほどの着任の話に少し戻るんだけど、着任時は自分が学校の先生っていう意識よりもね、自分の出た学校でもあるし、先輩として一生懸命やるっていう感じの方が強かったと思うのね。学校はむしろお手伝いっていうか、臨時の気持ちだったからお金貰おうと思ってなかったの。ですから、「生活するためには自立しなきゃいけない、自立してこそ学校のお役に立てる」っていうふうに思ってたから。だからデザイン事務所を作って、自分で仕事を探して、少しずつ少しずつ自分の仕事で食べていけるようにしていったわけです。自分の作品というよりは、相手の要求に合わせたものを作って差し上げるっていう仕事ですよね。おかげで私も海外でいろんな評価を少しずついただきました。 それで意外や意外に、「ファイバーアート」っていう新しい分野が生まれ、そういったことに参加しながら食べるための仕事と並行して少しずつでやってきました。なかなかスムーズに両立することが難しくて、本当に胸が痛いこともありますが、おかげさまでいろんなところで評価をいただいています。イタリアやフランス、ポーランドなどの国際展の審査委員などもやらせていただいたりもしています。 今日もパリオリンピック2024に関連する展覧会に向けて作品を発送するところなんです。出品作品の全てが80cm×80cmのサイズで色は赤一色で統一されているそうなんです。 なかなか自分の思う作品が作れないのが悩みですね。でも自分の作品を作ることよりも、やっぱりもっと世の中に役に立つことをした方がいいんじゃないかなと思ってね。 深津:赤と言えばね、先生の一番シンボリックな作品のシリーズですよね。 わたなべ:自分の思っていることの何分の1もなかなか実際にはできないなと思うんですけどね。でもベストを尽くしてやるしかない。たいしたことはできないけれども、悔いなく、二度とない命ですから。それなりに「悔いなく生きたい」と思ってるんですけど、なかなかね、悔いなくというところまで‥。 多摩美退職後の活動 シルクロード横断プロジェクトとギャラリースペース21 深津:先生は退職後に壮大なプロジェクトをされましたね。 わたなべ:はい、シルクロードを横断するプロジェクトですね‥。在職中は何ヶ月も休めないからできなかったですし、部分的には調査をしていましたけど砂漠を通ることが禁止されていた時期もあり、通れるようになってから退職後の75歳の時に念願だったプロジェクトを実施しました。シルクロードの終着地である日本の東大寺から出発して、大陸に渡り草原ルートを辿ってローマまで横断しました。各地で地元の方たちと対話をしながらワークショップや展覧会を行いましたし、東洋と西洋の境に位置するイスタンブールの国立マルマラ大学と組んでシンポジウムをやったんです。その時にシルクロードの子供たちと日本の子供たちの絵を交換してきて、日本の北から南10ヶ所で展覧会もやりました。 日本のファイバーアート展を立ち上げニューヨークでの発表後、サンフランシスコ、フィンランド、スペイン、ポルトガル、オランダ等、各地で行いました。 それから他にも日本のファイバーアーティストを育てるための展覧会「テキスタイル・ミニアチュール展『一本の糸からときを超えて』」を1986年に私の持ちギャラリーで開催しました。21世紀に至るまで、10回行いました。当時はこんなファイバーアートの展覧会をやってくれるギャラリーがなかったんです。絵じゃないから馬鹿にされてね。だから新しいテキスタイルアーティストを育てるための発表空間が欲しいと思って、新橋にあった私の事務所のところにギャラリーを作り行ったんです。そこは21世紀までやるっていうことで「ギャラリースペース21」という名前で開いたんです。ただ、私はギャラリストではないので21世紀に入ってギャラリーを閉じ、同時に私も展示に関わる任を終えました。その後、「テキスタイル・ミニアチュール」は「百花」シリーズとして後輩方々が継承してくださり、現在でも国内や海外で展覧会が開催されています。 多摩美生への言葉 深津:最後に在校生の皆さんに向けた言葉をいただけますか? わたなべ:私はこれまで50カ国ぐらいの世界をたくさん回ってるけど、日本のようにこんなに四季の美しい国は他にない。そしてこんなに素晴らしい感性を持った民族ってそんなにいないと思う。だから、皆さんにはそれをもっと知って欲しいし、自分の文化を大切にして欲しい。陶芸なんか見ても世界一だと思う。 私たちは確かに白磁や青磁を中国や韓国から習ったかもしれないけど、日本はどんな飲食店に行っても食べ物によって全部器が違います。窯も沢山あって、どこへ行っても素晴らしい焼き物がある。 同じように染織を見ても、皆どれも素晴らしい。こんな素晴らしい国なのに、何でもっとそこに住んでいる人が良さを自覚しないのか。大切にしないのか‥。 中国をはじめ、アジアの多くの国はエネルギッシュに世界に向かって発信をしています。日本も自分たちの良さをもっと知って欲しいし、体感してもらいたいし、そして自信を持ってインターナショナルに出してほしいですね。皆さんには、日本の良さをエネルギッシュにメッセージし発信してほしいと思います。 インターナショナルになるということは、なんでもかんでも一緒になって混ざるってことじゃなくて、やっぱり日本という個性を持ちながら協調性や共通性を持つっていうこと。そうしなかったらみんな一緒になってつまらないと思うのね。 考えてみると、私は多摩美に生かされ育てられたんじゃないかと思うのね。だから、今、多摩美に少しでもお返しができたらなと思ってやってるんだけど。それと同時に、多摩美を通して日本というものを世界にメッセージしていきたい。だから皆さんには、その核を作っていただきたいのね。そのお役に立つようであればと思って、今も多摩美に関わらせていただいているところなんです。 vol.1~「Textile Art Studio 1975年 設立」「男性優位な社会を跳ね退けて志した美術への道」はこちら vol.2~「テキスタイルとの出会いから渡欧へ」「染織デザイン専攻の設立と目指した教育」はこちら

【特集記事】第1回 卒業生インタビュー わたなべひろこ先生vol.2

2024年11月19日

戦後のファイバーアート界を牽引! 多摩美テキスタイルデザインの源流を創った わたなべひろこ名誉教授にインタビュー 1957年多摩美術大学図案科(平面)卒業後、フランス留学を経て多摩美術大学に着任したわたなべひろこ先生。現在はNPO国際テキスタイルネットワークジャパンの代表として、後進の育成にも力を入れています。第一回目となる今回の「卒業生インタビュー」では、同学科卒で親交の深い深津裕子教授(校友会事務局長・リベラルアーツセンター教授)がわたなべ先生のお話を伺いました。 わたなべ ひろこ(Watanabe Hiroko) 1957年多摩美術大学卒業 新制度1期生 1959年多摩美術大学着任 1957〜59年フランス留学 1964〜65年フィンランド留学 2007年シルクロードプロジェクト実施 国際トリエンナーレ、ビエンナーレ等の審査員 国際展のキューレタ等、文化交流を務める https://www.youtube.com/watch?v=H7K_oUF0YoM テキスタイルとの出会いから渡欧へ 深津:様々な先生方から学ばれた中で、どのようにしてテキスタイルの道に進んだのですか? わたなべ:いろいろな先生方はいたものの就職を考えた時に、その時代はどこの会社も女性の正社員をとらなかったんです。女性はお茶くみ係で、2年間やって古くなってクビになるわけですね。 これじゃどうしようもないから、手に職をつけて職人になればいいんじゃないかなと思ったんです。そしたら芹沢銈介先生(1956年 重要無形文化財保持者、後に人間国宝になられた)が染織の授業を持っておられて、それがテキスタイルというものに関わったきっかけです。先生は私に技術を教えると同時に自由に勉強させてくださり、私は京都や金沢などへ行って友禅だとか絞りだとか、とにかくいろんな染色を勉強したんですね。 そしたら日本の染織がものすごく素晴らしいっていうことがだんだんとわかってきたんです。当時はやっぱり職人の世界も女性は通用しない時代でしたが、一方で杉浦非水先生はリベラルな方だったので、共学になる前から女性を優先的に受け入れていたんですね。そうしたこともあって、時代の先端をいく女性がたくさん集まっていたんです。その中には、第3代最高裁判所長官の横田喜三郎氏(1896-1993)の娘さん横田経子さんもいらっしゃいました。 その横田さんがある日私にいったんです。「日本はどうしようもないよ。学校を出たら私は外を見てきたいと思う。」と仰って、アメリカの(ミシガン州にある美術系大学院、)クランブルック・アカデミー・オヴ・アート(Cranbrook Academy of Art)を目指されていたんです。その話を感心して聞いていたんですけど、「渡部さんはどうするの?」といきなり聞かれたもんですから、「じゃあ、あなたが新しい国のアメリカに行かれるなら、わたしは伝統のあるヨーロッパへ行きます」って言ってしまったんです。帰ってきたら二人で力を合わせましょうね、なんて話までしてしまいました。 とはいえ、ヨーロッパも広いのでどこへ行っていいか分かんない。それで考え始めて、ちょうど私の尊敬してた女流画家の三岸節子(1905-1999)さんが、ちょうどパリから帰ってらっしゃって、朝日新聞で講演なさったんです。それでパリだと思ったんですよ。そこからは日仏学院にも通いながら必死にフランス語も勉強して、多摩美の卒業と同時にパリへと飛びました。 私が行きたかったパリの大学(ECOLE NATIONAL SUPERIEUR DES ARTS DECORATIFS,通称アール・デコ、ENSADはすごい厳しい学校で、当時受験生を1週間缶詰にして入学試験をやっていたんです。私はすぐには入れなかったけれど、なんとか入学ができて、フランスだけじゃなくて、ヨーロッパを回りながら、できるだけ色んなことを吸収したんです。 ただ、デザインという面ではフランスは王朝文化の国なのでちょっと違ったんです。そう思っていた時に、パリに入ってきた北欧デザインを見ていたら、これは日本のお手本になるんじゃないかと思ったんです。それで北欧もいろいろと回って調べたんですが、一番北の端のフィンランドに一番オリジナリティがある。そして一番日本のテイストに近いと感じたんです。1957年から1959年にかけてパリにいて、帰国後にフィンランドのHELSINGIN KASITYON OPETTAJA OPIST(現ヘルシンキ大学教育学部)に2回留学をしました。1回目は自費で、2回目はフィンランド政府から助成金をもらっていかせていただきました。その時の勉強っていうのが、やっぱり私の血と肉になったと思います。           染織デザイン専攻の設立と目指した教育        深津:留学から帰ってこられて、多摩美に関わられたんですよね? わたなべ:理事長から、多摩美に戻ってこいって言われたんですよ。でも私は、勉強嫌い・学校嫌いで、枠にはめられるっていうのがすごく嫌だったので、先生はしたくないって2回断ったんですね。その時に理事長が「染色はお前が残せと言った授業じゃないか。なぜ面倒見れないんだ!」って怒鳴られたんですよ。 かつて芹澤先生が持たれていた染色の授業があったんですけど、なくなっちゃったんです。その時に、私が理事長に「日本の染色って素晴らしい、だから残してください」って陳状に行ったんです。その当時、染色の授業は女子美にしかなくて、芸大も武蔵美にもなかった。ですから、渡邊素舟先生も協力してくださって、一緒に陳状したところ、理事長も納得して授業を継続してくださったんです。 ところが私はそれからフランスに留学しちゃったから‥。 だけど、私はある程度自分が出来てからじゃないとダメ。教えられないと思った。だから、とてもじゃないけど私にはできませんってお断りしたんですね。そしたら怒られてしまったんです。 3回目に理事長のところに行った時に、「こんな奴は相手にできない」と理事長に諦めさせようと思って、高飛車な物言いで「もしするんだったら、織ったり染めたりっていう工芸的な仕事だけではなくて、もっと幅広くデザインとかアートとか、グローバルに考えていかなきゃいけないので、こんな授業はしたくありません」と言ったんです。さらに、「こんな一つの授業だけじゃなくて、科としてやるんじゃなければ意味がない」とお伝えしたんです。 きっと怒鳴られるだろうなと思ったんですけど、何の風の吹き回しか理事長に「あい合かった」って言われて、私の方が驚愕しちゃってね。それで引っ込みがつかなくなって、1959年に、アメリカに留学していた横田経子さんと一緒に着任し、1960年に染織専攻を作ってくださったんです。 深津:ちょうど図案科に商業デザイン・工業デザイン・染織の3部門が設置された時ですね。 わたなべ:設立当時は少人数だったんですけど、最終的には一学年40人の学生が集まるようになって、後に染織デザイン、現テキスタイルデザインとういう名前に変わりましたね。入試倍率も15倍から20倍になったこともありました。私はろくな先生じゃなかったけど、そのお陰でほんとに優秀な方が育ってくださって、嬉しいんです。 あとね、理事長の誘いを受けたもう一つの理由があって、それがさっきも言った芸術心理学の霜田静志先生から教わったことなんです。 先生曰く、有名なアーティストが担当するクラスと、無名だか真面目なアーティストが担当するクラスでは、実直な先生の方が優秀なアーティストが育つそうなんです。有名な先生のクラスには先生に憧れて学生が集まってくる。そして先生のスタイルをみんな真似し、先生も自分のセオリーが絶対だから、それを押し付ける。それでそういうスタイルの優秀な人が育つ。だけど、真面目な先生は、その人その人の個性を大事に指導して教えたから、結局この有名でない先生の方から優秀な次のアーティストがたくさん育ったという、そういうお話をしてくれたのを思い出したんですよね。 だから、当時の私はまだ、人に教える資格はなかったけれども、先生の言う「真面目な先生」の方だったらできるかもしれないと思って引き受けたんです。 vol.1~「Textile Art Studio 1975年 設立」「男性優位な社会を跳ね退けて志した美術への道」はこちら vol.3 〜「デザイナー/アーティストとしての取り組み」「多摩美退職後の活動 シルクロード横断プロジェクトとギャラリースペース21」「多摩美生への言葉」はこちら

【特集記事】第1回 卒業生インタビュー わたなべひろこ先生vol.1

2024年11月12日

戦後のファイバーアート界を牽引! 多摩美テキスタイルデザインの源流を創った わたなべひろこ名誉教授にインタビュー 1957年多摩美術大学図案科(平面)卒業後、フランス留学を経て多摩美術大学に着任したわたなべひろこ先生。現在はNPO国際テキスタイルネットワークジャパンの代表として、後進の育成にも力を入れています。第一回目となる今回の「卒業生インタビュー」では、同学科卒で親交の深い深津裕子教授(校友会事務局長・リベラルアーツセンター教授)がわたなべ先生のお話を伺いました。 わたなべ ひろこ(Watanabe Hiroko) 1957年多摩美術大学卒業 新制度1期生 1959年多摩美術大学着任 1957〜59年フランス留学 1964〜65年フィンランド留学 2007年シルクロードプロジェクト実施 国際トリエンナーレ、ビエンナーレ等の審査員 国際展のキューレタ等、文化交流を務める https://www.youtube.com/watch?v=H7K_oUF0YoM 「Textile Art Studio」1975年 設立 深津:最初に、東京で会社を立ち上げた経緯や、隈研吾さん(1954-)が設計されたスタジオについてお伺いできますか? わたなべ:私が学生の当時、女性はどこの会社にも就職できないっていう時代で、だから自分で仕事を持たなきゃならず、自分でデザインルームっていうか、会社を設立して仕事を始めざるを得なかったんですね。たまたまその時にテキスタイルというものの重要性を知ったもんですから、テキスタイルのお仕事をしようと思ったんです。 他にもいろんな分野があって、伝統的な着物なんかを中心とした世界は京都が実権を握ってて、ファッションの方は代表的な会社やデザイン部門が全部大阪にあったんです。 その二の舞をしてもしょうがないので、何か彼らがやらない新しいことをやらなきゃいけない。そう考えた時に、当時は畳の生活から椅子の生活に移っていて、新しいカーテンとかカーペットとか椅子張りとか、そういう今までにないテキスタイルのニーズっていうのが生まれたんです。東京でやるならば、その新しい分野でなければ意味がないと思って、ジャパンインテリアの設立に続いて1975年にインテリアテキスタイルを取り扱う「株式会社 Textile Art Studio」を設立したんです。会社設立の前にも学生時代に「わたなべひろこデザインルーム」を立ち上げてはいました。 当初は、それをどういう風に動かしていったらいいかと考えました。有名な建築家とか、ゼネコン、それからデパートの外商、そういうところを目当てに仕事を売り込みに行ったんです。最初は断られ続けたんですが、あの手この手で何度も足繁く通っていろんなアイデアを持ってですね、会社を回ってたんです。 そんな中、転機になったのが鹿島建設だったんです。たまたま重役室のカーテンを取り替える時に私は自分でデザインやプリントしたものを取り付けたんです。そうしたら来るお客さんが皆感心して、面白い面白いって褒めてくれたそうです。そんなことをきっかけにしながら、仕事が少しずつ進むようになったんです。 そんなふうにして、いろいろな建築家の先生とか、関係者との交流も生まれていきました。以前の(二子玉川駅前にあった)アトリエ(Textile Art Studio)は建築家の宮脇檀先生(1936-1998)にお願いしたんですけど、この今のアトリエは隈研吾さんにお願いすることができました。宮脇先生は隈先生が東大時代に習った先生らしく、隈先生は「先生の後の仕事を僕引き受けるよ」とおっしゃってくださいました。ちょうど隈先生がオリンピックのスタジアムを手がける直前だったと思うんですけど、タイムリーな時期に受けていただけたのは本当にラッキーだったと思います。    男性優位な社会を跳ね退けて志した美術への道 深津:ちょっと昔に巻き戻るかもしれないですけれども、多摩美に入学したきっかけを教えていただけますか。 わたなべ:私が子供だった時分は、子供であっても男女は別々の席に座らされるような時代でした。ですから、小学校の頃から男女が組になることもありませんでした。また、戦時中には東京の家も焼かれ、父も戦地に招集され生きるか死ぬかといった状態で、母の里に疎開したり香川県の軍隊のある街に小さな家を借りて過ごしたりもしました。 戦後には、生活を立て直すために父の田舎の四国で生活していたんです。ところが、四国っていうのは、九州に次いで男尊女卑の強いとこなんですよ。それでね、兄と私とでは待遇が違ったんですよ。それで私、母に訴えたんです。「私は女に生まれたくて生まれたわけじゃないのに、どうしてこんなに違うの。」って、不服を言ったんですね。 そしたら母は、「私もそう思います。あなたの言うことはもっともです。だけどね、これから世の中が変わりますよ。だから勉強しなさい。」と言ったんです。続けて、「いくら口先で男女同権って言っても、長い間、女性は男性の庇護の下に生きてきてるから、本当の意味で精神的な自立ができてない。だから精神的な自立をちゃんと考えなさい」と。もう一つは、「経済的に自立ができなければだめです。」とも言われました。 これは、「自立できるだけの手に職をつけなさい」っていう母の教えだったんです。 それで、兄が医者を目指していたので、女医っていうのもいいなと思いまして、兄の友人にお願いして医学部を見学しに行ったんです。その時、死体の解剖まで見せて下さって、医者の仕事って素晴らしいなと感じました。だけど同時に、命を扱う仕事は自分に向かないっていうのをしみじみ悟ったわけなんです。 じゃあ、次にどうしたらいいか考え直したんです。その頃にね、デザインという新しい概念が世の中に入ってきたわけです。男の人の因習も少ないんじゃないかなって。 それで私、女子美術大学を勝手に受験したんです。だけど、それが父に見つかりましてね。父は、自分の後継者が欲しかったのもあって、自分の目の適った男と結婚させるのが私の幸せって思ってたわけです。美術学校なんて行ったら嫁の貰い手がなくなるということで、許してもらえなかったんです。後から分かったんですけど、父はうちの娘が受けてるんで落としてくれと学校に頼んだほどなんです。 それでも、やっぱり大学で勉強をしなきゃいけないと思ったんですけど、共学はダメで。そんな中で許されたのが、その当時の男の人に人気のあった日本女子大。そこならいいって言うんですね。仕方がないから、日本女子大に入って一生懸命真面目に勉強してたんですけど、3年になる直前ぐらいでしたかね、たまたま三越で多摩美の学生展を見たんですね。それを見たらもう感動しちゃいましてね。素晴らしくて、「多摩美に入ろう」と思ったわけですよ。 ただ、父に知られたら、また大変なので、黙って受けたんです。そして合格後に、日本女子大に退学届を出しました。けれども恐らく父に勘当されるだろうと思い、神田で住み込みの仕事も同時に見つけて、多摩美に通う準備をしました。 手続きを全て終えた後、父に多摩美への入学を頼んだんです。案の定、父からは「僕はしらん」と跳ね除けられましたが、母がなだめてくれて、入ることができたんです。 当時、上野毛にあった多摩美の校舎は戦争で全部焼けていて、専門学校から新制大学に移行する時だったんです。大学といっても、四年制ではなく短期大学でした。デザインって言葉もまだなく図案科だったんですけど、素晴らしかったですね。お絵描きを習うんじゃなく、杉浦非水先生(1876-1965)(多摩帝国美術学校校長、図案化主任、グラフィックデザイナー)から直接指導を受けたり、建築は今井兼次先生(1895-1987)、インテリアは剣持勇先生(1912-1971)、グラフィックは山名文夫先生(1897-1980)、舞台装置は吉田謙吉先生(1897-1982)、工芸は渡邊素舟先生(1890-1986)などなど。特に多摩美に戻って来るきっかけになった霜田静志先生(1890-1973)の心理学の授業があったんです。もう本当にね、素晴らしい先生方が揃っててね、ウハウハだったんです。 vol.2~「テキスタイルとの出会いから渡欧へ」「染織デザイン専攻の設立と目指した教育」 はこちら vol.3 〜「デザイナー/アーティストとしての取り組み」「多摩美退職後の活動 シルクロード横断プロジェクトとギャラリースペース21」「多摩美生への言葉」はこちら

2024年度 多摩美術大学校友会の活動に向けて

2024年7月12日

会員の皆さま             先日6月29日に行なわれました定時社員総会2024におきまして、任意団体として旧来の組織が保有しておりました残余財産について、満場一致のもと、一般社団法人多摩美術校友会への移譲が承認されました。また、2024年度の活動計画、予算案が可決されたことで、今年度の事業が正式にスタートすることとなりました。昨年度からスタートした組織の改編と活動の継続が円滑に進められていること対して、改めて会員の皆さまに御礼を申し上げますとともに、引き続き、多摩美術大学校友会への一層のご理解とご協力をお願い申し上げます。  さて、次年度の2025年度は、多摩美術大学が創立90周年を迎え、校友会も任意団体の時期を含めて30周年を迎える記念すべき年となります。本年度はその準備を進める年となります。現在、2025年10月18日に大学での記念式典が予定されており、校友会としましても、節目となる「ガーデン同窓会」を実施する予定で企画を進めております。  周年事業に際しては、これまでも校友会から大学への寄付をして参りましたが、今後、そうした寄付金につきましても検討していくことになります。なお、校友会とは別に、大学からも卒業生を対象とした寄付金を募る計画があるように聞いております。校友会としては、改めて寄付を募ることはいたしませんが、ご承知おきいただきたく思います。  昨年度は、奨学金や芸術助成活動の拡充など、会員、準会員の活動支援に努めるとともに、新たな形式によるチャリティビエンナーレの実施、卒業生の訪問企画やHPの充実等に取り組んでまいりました。本年度は、10月12日(土)にガーデン同窓会の実施を計画するとともに、四美大アラムナイの幹事校として、美大4校をまとめることとなっております。  組織整備につきましても、いまだ道半ばであり、引き続き、持続可能な校友会、安心して次世代に引き継ぐことができる校友会の在り方を模索しつつ、今年度も活動を展開していきたいと考えております。  会員の皆さまのご理解とご支援を、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。                               2024年7月吉日 一般社団法人多摩美術大学校友会 代表理事 中村 一哉

深作秀春 新作展

2024年12月20日
#展覧会

出品者深作秀春(2012年修士課程修了)日程2025年1月9日(木)~2025年1月25日(土)時間11:00~19:00(最終日17:00まで)休廊日日曜・祝日料金入場無料場所Hideharu Fukasaku Gallery Roppongi(ヒデハルフカサクギャラリー六本木)東京都港区六本木7-8-9 深作眼科ビル1F・B1問合せTEL : 03-5786-1505 FAX : 03-5786-1506E-mail : hfg@fukasaku.jp WEBFukasaku Art Museum & GalleryFacebookX(Twitter) このたびHideharu Fukasaku Gallery Roppongi では、2025年1月9日(木)より「深作秀春 新作展」を開催致します。新春恒例の展覧会です。 深作は眼科外科医として世界の第一線で活躍しながら美術家としても創作活動を展開し、多彩な表現で独自の世界を描いています。医学を究めると同時に「医食同源」をコンセプトにしたレストランの経営と、FEIグループ統括理事として画廊運営にも携わり、若手作家の支援や日本のアートシーンを精力的に牽引しています。 書籍も積極的に発表、眼科医ならではの視点による『眼脳芸術論』や画家としての作品をまとめた『深作秀春 画文集』を出版。2023年末には『白内障の罠』『100年視力』『失明リスクのある病気の治療法』三冊を刊行しました。 美術家としては、2019 年には国際芸術コンペティション「第3 回アートオリンピア」にて審査員特別賞を受賞(千住博審査員)、ヴェネチアビエンナーレの協力企画であるヨーロピアンカルチュラルセンターの企画展において、世界各国から集まる美術家の一人として作品を展示出品(「PERSONALSTRUCTURES-Identities-」)するなど目覚ましい活躍をみせています。さらに「深作秀春展(永井画廊)」開催をはじめ「第一回 三越伊勢丹・千住博日本画大賞展(入選)」「日本の絵画2018 大賞受賞展」「第19回世界絵画大賞展2023(優秀賞)」など活動と評価の場を広げています。 本展では年明けのご挨拶とともに、旺盛な創作意欲でますます表現の幅を広げる深作の作品を新作とともに紹介致します。

FACE2025 受賞・入選のお知らせ

2024年12月12日
#展覧会 #受賞

FACE2025にて多摩美術大学在学生・卒業生・修了生9名が受賞および入選されました。おめでとうございます!▶︎ 【全国公募:FACE2025】 受賞・入選者が決定しました(SOMPO美術館)  HUANG YUQI《物事の秩序Ⅱ》2024年 竹内美樹《祖母宅の庭》2024年 優秀賞HUANG YUQI(修士課程在学生)竹内美樹(修士課程在学生)入 選Senn(修士課程在学生)牧野優希(修士課程在学生)山田大輝(修士課程在学生)ウラサキミキオ(1988年美術学部卒業)笹本明日香(2008年美術学部卒業)林銘君(2023年修士課程修了)宮内柚(2023年修士課程修了) 第13回目となる現代絵画のコンクール展です。「年齢・所属を問わない新進作家の登竜門」として、全国より応募された作品から入選・受賞した作品を展示します。様々な技法やモチーフで時代の感覚を捉えた「真に力があり、将来国際的にも通用する可能性を秘めた」作品をお楽しみください。*会期中には観覧者投票が行われ、オーディエンス賞が授与されます。 日 程2025年3月1日(土)〜2025年3月23日(日)時 間10:00~18:00(入館は閉館30分前まで)休館日月曜日(祝日・振替休日の場合は開館)場 所SOMPO美術館東京都新宿区西新宿1-26-1観覧料800円(高校生以下無料)WEBFACE展2025

第4回 公開研究会|長崎剛志「神社とアートと庭と人」

2024年12月12日
#イベント

多摩美術大学アートとデザインの人類学研究所では、自然災害と芸術表現の関係性を多角的に探るさまざまな活動を展開しています。とりわけ、長崎県島原半島に位置する雲仙・普賢岳を主題に、火山活動や噴火災害が芸術表現に与えた影響や災害記憶の継承について研究を進めています。 今回は、庭園美術を通じて文化的価値と自然への敬意を体現する数多くのプロジェクトを手がけてきた庭園美術家・長崎剛志氏を講師に迎えて公開研究会を開催します。2019年よりプロジェクトを始動、今年竣工した神仏習合の庭「諫早神社の御神苑」を中心に紹介していただき、自然の力と信仰、災害と芸術の関係について考える機会とします。研究会後半では、椹木野衣所員を交えてディスカッションも行ないます。 日程2024年12月13日(金)時間16:30〜18:00(開場 16:20)会場多摩美術大学 八王子キャンパス・アートとデザインの人類学研究所対象多摩美術大学学生・教職員、学外一般お問い合わせ多摩美術大学アートとデザインの人類学研究所〒192-0394 東京都八王子市鑓水 2-1723 メディアセンター4FEmail:iaa_info@tamabi.ac.jp※参加自由 / 事前申込不要(当日会場にて記帳をお願いします)。※定員は40名程度。満席の際は入場をお断りする場合があります。 講師長崎剛志  Takeshi NagasakiN-tree代表・庭園美術家。1970年奈良県生まれ。東京藝術大学絵画科卒業後、独学で作庭を学び、1997年にN-tree(庭ノ心 ながさ木)を設立。2008~2010年にロンドンで活動。帰国後、国内外の庭園プロジェクトに関わり、2011年の東日本大震災では「復興支援プロジェクト 庭JAPAN」として松島や石巻での支援活動に取り組む。2019年より長崎県諫早神社の江戸期につくられた庭園を改修するプロジェクト「諫早神社の御神苑」を開始、2024年11月竣工。主な展覧会に「Seeds 1~5」(2005~2007年、東京)、「MEMENTO GARDEN」(2009年、ロンドン)、「石と種」展(2016年、東京)などがある。2024~2025年には長崎剛志/N-tree 28周年記念庭園美術展「原始庭苑」を東京・長崎・奈良・スペインで開催予定。

多摩美術大学 演劇舞踊デザイン学科 2024年度 卒業制作演劇公演『半神』

2024年12月10日
#公演

メンバー多摩美術大学 演劇舞踊デザイン学科 在学生ほか日程2024年12月20日(金)〜2024年12月22日(日)タイムスケジュール12月20日(金)19:00 12月21日(土)13:00 ・18:00 12月22日(日)13:00 ※上演時間は、約120分を予定場所二子玉川ライズ スタジオ&ホール東京都世田谷区玉川1-14-1 二子玉川ライズ料金一般:4,500円U25:3,500円高校生:1,000円当日券:各500円増(一般・U25)チケット< 一般・U25 >演劇最強論-ing(会員登録不要・手数料なし)ローソンチケットLコード:34657チケットぴあPコード:530332< 高校生以下|当日精算>申し込みフォーム※詳細はWEBをご確認ください問合せ『半神』制作部:sdd8th.tamabi@gmail.comWEB公演_半神主催多摩美術大学演劇舞踊デザイン学科協力二子玉川ライズ 多摩美術大学 演劇舞踊デザイン学科には、<演劇舞踊コース>と<劇場美術デザインコース>があります。コースごとの専門性を深めると同時に、「合同授業」を通じて交差し合いながら《上演芸術》を学んでいます。 卒業制作演劇公演では、4年間の学びの集大成として、両コースのコラボレーション作品を上演します。 今年度は、萩尾望都と野田秀樹が共同で戯曲化した名作『半神』に挑戦。 結合双生児の2人の行く末を、8期生はどのように表現するのか、二子玉川で奏でられるシンフォニーをご照覧あれ! -introduction- おまえたちは双子のシンフォニー    決して第九を超えることのできぬ運命 醜いが頭の良い姉シュラと、美しくて誰からも愛されるが頭が弱い妹マリア。 結合双生児である2人は、時に反発し、時に依存しあいながら生きてきた。 しかし10歳を目前にして、双子が共有する心臓が限界を迎える。 そこで主治医は2人の分離手術を提案する。 生き残ったのはシュラかマリアか...

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