【特集記事】第1回 卒業生インタビュー わたなべひろこ先生vol.3

2024年11月26日

戦後のファイバーアート界を牽引! 多摩美テキスタイルデザインの源流を創った わたなべひろこ名誉教授にインタビュー 1957年多摩美術大学図案科(平面)卒業後、フランス留学を経て多摩美術大学に着任したわたなべひろこ先生。現在はNPO国際テキスタイルネットワークジャパンの代表として、後進の育成にも力を入れています。第一回目となる今回の「卒業生インタビュー」では、同学科卒で親交の深い深津裕子教授(校友会事務局長・リベラルアーツセンター教授)がわたなべ先生のお話を伺いました。 わたなべ ひろこ(Watanabe Hiroko) 1957年多摩美術大学卒業 新制度1期生 1959年多摩美術大学着任 1957〜59年フランス留学 1964〜65年フィンランド留学 2007年シルクロードプロジェクト実施 国際トリエンナーレ、ビエンナーレ等の審査員 国際展のキューレタ等、文化交流を務める https://www.youtube.com/watch?v=H7K_oUF0YoM デザイナー/アーティストとしての取り組み 深津:先生にはテキスタイルデザイナーとしての活躍と、ファイバーアーティストとしての活動の二つの軸があるかと思いますが、それについてお話を伺えますか? わたなべ:先ほどの着任の話に少し戻るんだけど、着任時は自分が学校の先生っていう意識よりもね、自分の出た学校でもあるし、先輩として一生懸命やるっていう感じの方が強かったと思うのね。学校はむしろお手伝いっていうか、臨時の気持ちだったからお金貰おうと思ってなかったの。ですから、「生活するためには自立しなきゃいけない、自立してこそ学校のお役に立てる」っていうふうに思ってたから。だからデザイン事務所を作って、自分で仕事を探して、少しずつ少しずつ自分の仕事で食べていけるようにしていったわけです。自分の作品というよりは、相手の要求に合わせたものを作って差し上げるっていう仕事ですよね。おかげで私も海外でいろんな評価を少しずついただきました。 それで意外や意外に、「ファイバーアート」っていう新しい分野が生まれ、そういったことに参加しながら食べるための仕事と並行して少しずつでやってきました。なかなかスムーズに両立することが難しくて、本当に胸が痛いこともありますが、おかげさまでいろんなところで評価をいただいています。イタリアやフランス、ポーランドなどの国際展の審査委員などもやらせていただいたりもしています。 今日もパリオリンピック2024に関連する展覧会に向けて作品を発送するところなんです。出品作品の全てが80cm×80cmのサイズで色は赤一色で統一されているそうなんです。 なかなか自分の思う作品が作れないのが悩みですね。でも自分の作品を作ることよりも、やっぱりもっと世の中に役に立つことをした方がいいんじゃないかなと思ってね。 深津:赤と言えばね、先生の一番シンボリックな作品のシリーズですよね。 わたなべ:自分の思っていることの何分の1もなかなか実際にはできないなと思うんですけどね。でもベストを尽くしてやるしかない。たいしたことはできないけれども、悔いなく、二度とない命ですから。それなりに「悔いなく生きたい」と思ってるんですけど、なかなかね、悔いなくというところまで‥。 多摩美退職後の活動 シルクロード横断プロジェクトとギャラリースペース21 深津:先生は退職後に壮大なプロジェクトをされましたね。 わたなべ:はい、シルクロードを横断するプロジェクトですね‥。在職中は何ヶ月も休めないからできなかったですし、部分的には調査をしていましたけど砂漠を通ることが禁止されていた時期もあり、通れるようになってから退職後の75歳の時に念願だったプロジェクトを実施しました。シルクロードの終着地である日本の東大寺から出発して、大陸に渡り草原ルートを辿ってローマまで横断しました。各地で地元の方たちと対話をしながらワークショップや展覧会を行いましたし、東洋と西洋の境に位置するイスタンブールの国立マルマラ大学と組んでシンポジウムをやったんです。その時にシルクロードの子供たちと日本の子供たちの絵を交換してきて、日本の北から南10ヶ所で展覧会もやりました。 日本のファイバーアート展を立ち上げニューヨークでの発表後、サンフランシスコ、フィンランド、スペイン、ポルトガル、オランダ等、各地で行いました。 それから他にも日本のファイバーアーティストを育てるための展覧会「テキスタイル・ミニアチュール展『一本の糸からときを超えて』」を1986年に私の持ちギャラリーで開催しました。21世紀に至るまで、10回行いました。当時はこんなファイバーアートの展覧会をやってくれるギャラリーがなかったんです。絵じゃないから馬鹿にされてね。だから新しいテキスタイルアーティストを育てるための発表空間が欲しいと思って、新橋にあった私の事務所のところにギャラリーを作り行ったんです。そこは21世紀までやるっていうことで「ギャラリースペース21」という名前で開いたんです。ただ、私はギャラリストではないので21世紀に入ってギャラリーを閉じ、同時に私も展示に関わる任を終えました。その後、「テキスタイル・ミニアチュール」は「百花」シリーズとして後輩方々が継承してくださり、現在でも国内や海外で展覧会が開催されています。 多摩美生への言葉 深津:最後に在校生の皆さんに向けた言葉をいただけますか? わたなべ:私はこれまで50カ国ぐらいの世界をたくさん回ってるけど、日本のようにこんなに四季の美しい国は他にない。そしてこんなに素晴らしい感性を持った民族ってそんなにいないと思う。だから、皆さんにはそれをもっと知って欲しいし、自分の文化を大切にして欲しい。陶芸なんか見ても世界一だと思う。 私たちは確かに白磁や青磁を中国や韓国から習ったかもしれないけど、日本はどんな飲食店に行っても食べ物によって全部器が違います。窯も沢山あって、どこへ行っても素晴らしい焼き物がある。 同じように染織を見ても、皆どれも素晴らしい。こんな素晴らしい国なのに、何でもっとそこに住んでいる人が良さを自覚しないのか。大切にしないのか‥。 中国をはじめ、アジアの多くの国はエネルギッシュに世界に向かって発信をしています。日本も自分たちの良さをもっと知って欲しいし、体感してもらいたいし、そして自信を持ってインターナショナルに出してほしいですね。皆さんには、日本の良さをエネルギッシュにメッセージし発信してほしいと思います。 インターナショナルになるということは、なんでもかんでも一緒になって混ざるってことじゃなくて、やっぱり日本という個性を持ちながら協調性や共通性を持つっていうこと。そうしなかったらみんな一緒になってつまらないと思うのね。 考えてみると、私は多摩美に生かされ育てられたんじゃないかと思うのね。だから、今、多摩美に少しでもお返しができたらなと思ってやってるんだけど。それと同時に、多摩美を通して日本というものを世界にメッセージしていきたい。だから皆さんには、その核を作っていただきたいのね。そのお役に立つようであればと思って、今も多摩美に関わらせていただいているところなんです。 vol.1~「Textile Art Studio 1975年 設立」「男性優位な社会を跳ね退けて志した美術への道」はこちら vol.2~「テキスタイルとの出会いから渡欧へ」「染織デザイン専攻の設立と目指した教育」はこちら

【特集記事】第1回 卒業生インタビュー わたなべひろこ先生vol.2

2024年11月19日

戦後のファイバーアート界を牽引! 多摩美テキスタイルデザインの源流を創った わたなべひろこ名誉教授にインタビュー 1957年多摩美術大学図案科(平面)卒業後、フランス留学を経て多摩美術大学に着任したわたなべひろこ先生。現在はNPO国際テキスタイルネットワークジャパンの代表として、後進の育成にも力を入れています。第一回目となる今回の「卒業生インタビュー」では、同学科卒で親交の深い深津裕子教授(校友会事務局長・リベラルアーツセンター教授)がわたなべ先生のお話を伺いました。 わたなべ ひろこ(Watanabe Hiroko) 1957年多摩美術大学卒業 新制度1期生 1959年多摩美術大学着任 1957〜59年フランス留学 1964〜65年フィンランド留学 2007年シルクロードプロジェクト実施 国際トリエンナーレ、ビエンナーレ等の審査員 国際展のキューレタ等、文化交流を務める https://www.youtube.com/watch?v=H7K_oUF0YoM テキスタイルとの出会いから渡欧へ 深津:様々な先生方から学ばれた中で、どのようにしてテキスタイルの道に進んだのですか? わたなべ:いろいろな先生方はいたものの就職を考えた時に、その時代はどこの会社も女性の正社員をとらなかったんです。女性はお茶くみ係で、2年間やって古くなってクビになるわけですね。 これじゃどうしようもないから、手に職をつけて職人になればいいんじゃないかなと思ったんです。そしたら芹沢銈介先生(1956年 重要無形文化財保持者、後に人間国宝になられた)が染織の授業を持っておられて、それがテキスタイルというものに関わったきっかけです。先生は私に技術を教えると同時に自由に勉強させてくださり、私は京都や金沢などへ行って友禅だとか絞りだとか、とにかくいろんな染色を勉強したんですね。 そしたら日本の染織がものすごく素晴らしいっていうことがだんだんとわかってきたんです。当時はやっぱり職人の世界も女性は通用しない時代でしたが、一方で杉浦非水先生はリベラルな方だったので、共学になる前から女性を優先的に受け入れていたんですね。そうしたこともあって、時代の先端をいく女性がたくさん集まっていたんです。その中には、第3代最高裁判所長官の横田喜三郎氏(1896-1993)の娘さん横田経子さんもいらっしゃいました。 その横田さんがある日私にいったんです。「日本はどうしようもないよ。学校を出たら私は外を見てきたいと思う。」と仰って、アメリカの(ミシガン州にある美術系大学院、)クランブルック・アカデミー・オヴ・アート(Cranbrook Academy of Art)を目指されていたんです。その話を感心して聞いていたんですけど、「渡部さんはどうするの?」といきなり聞かれたもんですから、「じゃあ、あなたが新しい国のアメリカに行かれるなら、わたしは伝統のあるヨーロッパへ行きます」って言ってしまったんです。帰ってきたら二人で力を合わせましょうね、なんて話までしてしまいました。 とはいえ、ヨーロッパも広いのでどこへ行っていいか分かんない。それで考え始めて、ちょうど私の尊敬してた女流画家の三岸節子(1905-1999)さんが、ちょうどパリから帰ってらっしゃって、朝日新聞で講演なさったんです。それでパリだと思ったんですよ。そこからは日仏学院にも通いながら必死にフランス語も勉強して、多摩美の卒業と同時にパリへと飛びました。 私が行きたかったパリの大学(ECOLE NATIONAL SUPERIEUR DES ARTS DECORATIFS,通称アール・デコ、ENSADはすごい厳しい学校で、当時受験生を1週間缶詰にして入学試験をやっていたんです。私はすぐには入れなかったけれど、なんとか入学ができて、フランスだけじゃなくて、ヨーロッパを回りながら、できるだけ色んなことを吸収したんです。 ただ、デザインという面ではフランスは王朝文化の国なのでちょっと違ったんです。そう思っていた時に、パリに入ってきた北欧デザインを見ていたら、これは日本のお手本になるんじゃないかと思ったんです。それで北欧もいろいろと回って調べたんですが、一番北の端のフィンランドに一番オリジナリティがある。そして一番日本のテイストに近いと感じたんです。1957年から1959年にかけてパリにいて、帰国後にフィンランドのHELSINGIN KASITYON OPETTAJA OPIST(現ヘルシンキ大学教育学部)に2回留学をしました。1回目は自費で、2回目はフィンランド政府から助成金をもらっていかせていただきました。その時の勉強っていうのが、やっぱり私の血と肉になったと思います。           染織デザイン専攻の設立と目指した教育        深津:留学から帰ってこられて、多摩美に関わられたんですよね? わたなべ:理事長から、多摩美に戻ってこいって言われたんですよ。でも私は、勉強嫌い・学校嫌いで、枠にはめられるっていうのがすごく嫌だったので、先生はしたくないって2回断ったんですね。その時に理事長が「染色はお前が残せと言った授業じゃないか。なぜ面倒見れないんだ!」って怒鳴られたんですよ。 かつて芹澤先生が持たれていた染色の授業があったんですけど、なくなっちゃったんです。その時に、私が理事長に「日本の染色って素晴らしい、だから残してください」って陳状に行ったんです。その当時、染色の授業は女子美にしかなくて、芸大も武蔵美にもなかった。ですから、渡邊素舟先生も協力してくださって、一緒に陳状したところ、理事長も納得して授業を継続してくださったんです。 ところが私はそれからフランスに留学しちゃったから‥。 だけど、私はある程度自分が出来てからじゃないとダメ。教えられないと思った。だから、とてもじゃないけど私にはできませんってお断りしたんですね。そしたら怒られてしまったんです。 3回目に理事長のところに行った時に、「こんな奴は相手にできない」と理事長に諦めさせようと思って、高飛車な物言いで「もしするんだったら、織ったり染めたりっていう工芸的な仕事だけではなくて、もっと幅広くデザインとかアートとか、グローバルに考えていかなきゃいけないので、こんな授業はしたくありません」と言ったんです。さらに、「こんな一つの授業だけじゃなくて、科としてやるんじゃなければ意味がない」とお伝えしたんです。 きっと怒鳴られるだろうなと思ったんですけど、何の風の吹き回しか理事長に「あい合かった」って言われて、私の方が驚愕しちゃってね。それで引っ込みがつかなくなって、1959年に、アメリカに留学していた横田経子さんと一緒に着任し、1960年に染織専攻を作ってくださったんです。 深津:ちょうど図案科に商業デザイン・工業デザイン・染織の3部門が設置された時ですね。 わたなべ:設立当時は少人数だったんですけど、最終的には一学年40人の学生が集まるようになって、後に染織デザイン、現テキスタイルデザインとういう名前に変わりましたね。入試倍率も15倍から20倍になったこともありました。私はろくな先生じゃなかったけど、そのお陰でほんとに優秀な方が育ってくださって、嬉しいんです。 あとね、理事長の誘いを受けたもう一つの理由があって、それがさっきも言った芸術心理学の霜田静志先生から教わったことなんです。 先生曰く、有名なアーティストが担当するクラスと、無名だか真面目なアーティストが担当するクラスでは、実直な先生の方が優秀なアーティストが育つそうなんです。有名な先生のクラスには先生に憧れて学生が集まってくる。そして先生のスタイルをみんな真似し、先生も自分のセオリーが絶対だから、それを押し付ける。それでそういうスタイルの優秀な人が育つ。だけど、真面目な先生は、その人その人の個性を大事に指導して教えたから、結局この有名でない先生の方から優秀な次のアーティストがたくさん育ったという、そういうお話をしてくれたのを思い出したんですよね。 だから、当時の私はまだ、人に教える資格はなかったけれども、先生の言う「真面目な先生」の方だったらできるかもしれないと思って引き受けたんです。 vol.1~「Textile Art Studio 1975年 設立」「男性優位な社会を跳ね退けて志した美術への道」はこちら vol.3 〜「デザイナー/アーティストとしての取り組み」「多摩美退職後の活動 シルクロード横断プロジェクトとギャラリースペース21」「多摩美生への言葉」はこちら

【特集記事】第1回 卒業生インタビュー わたなべひろこ先生vol.1

2024年11月12日

戦後のファイバーアート界を牽引! 多摩美テキスタイルデザインの源流を創った わたなべひろこ名誉教授にインタビュー 1957年多摩美術大学図案科(平面)卒業後、フランス留学を経て多摩美術大学に着任したわたなべひろこ先生。現在はNPO国際テキスタイルネットワークジャパンの代表として、後進の育成にも力を入れています。第一回目となる今回の「卒業生インタビュー」では、同学科卒で親交の深い深津裕子教授(校友会事務局長・リベラルアーツセンター教授)がわたなべ先生のお話を伺いました。 わたなべ ひろこ(Watanabe Hiroko) 1957年多摩美術大学卒業 新制度1期生 1959年多摩美術大学着任 1957〜59年フランス留学 1964〜65年フィンランド留学 2007年シルクロードプロジェクト実施 国際トリエンナーレ、ビエンナーレ等の審査員 国際展のキューレタ等、文化交流を務める https://www.youtube.com/watch?v=H7K_oUF0YoM 「Textile Art Studio」1975年 設立 深津:最初に、東京で会社を立ち上げた経緯や、隈研吾さん(1954-)が設計されたスタジオについてお伺いできますか? わたなべ:私が学生の当時、女性はどこの会社にも就職できないっていう時代で、だから自分で仕事を持たなきゃならず、自分でデザインルームっていうか、会社を設立して仕事を始めざるを得なかったんですね。たまたまその時にテキスタイルというものの重要性を知ったもんですから、テキスタイルのお仕事をしようと思ったんです。 他にもいろんな分野があって、伝統的な着物なんかを中心とした世界は京都が実権を握ってて、ファッションの方は代表的な会社やデザイン部門が全部大阪にあったんです。 その二の舞をしてもしょうがないので、何か彼らがやらない新しいことをやらなきゃいけない。そう考えた時に、当時は畳の生活から椅子の生活に移っていて、新しいカーテンとかカーペットとか椅子張りとか、そういう今までにないテキスタイルのニーズっていうのが生まれたんです。東京でやるならば、その新しい分野でなければ意味がないと思って、ジャパンインテリアの設立に続いて1975年にインテリアテキスタイルを取り扱う「株式会社 Textile Art Studio」を設立したんです。会社設立の前にも学生時代に「わたなべひろこデザインルーム」を立ち上げてはいました。 当初は、それをどういう風に動かしていったらいいかと考えました。有名な建築家とか、ゼネコン、それからデパートの外商、そういうところを目当てに仕事を売り込みに行ったんです。最初は断られ続けたんですが、あの手この手で何度も足繁く通っていろんなアイデアを持ってですね、会社を回ってたんです。 そんな中、転機になったのが鹿島建設だったんです。たまたま重役室のカーテンを取り替える時に私は自分でデザインやプリントしたものを取り付けたんです。そうしたら来るお客さんが皆感心して、面白い面白いって褒めてくれたそうです。そんなことをきっかけにしながら、仕事が少しずつ進むようになったんです。 そんなふうにして、いろいろな建築家の先生とか、関係者との交流も生まれていきました。以前の(二子玉川駅前にあった)アトリエ(Textile Art Studio)は建築家の宮脇檀先生(1936-1998)にお願いしたんですけど、この今のアトリエは隈研吾さんにお願いすることができました。宮脇先生は隈先生が東大時代に習った先生らしく、隈先生は「先生の後の仕事を僕引き受けるよ」とおっしゃってくださいました。ちょうど隈先生がオリンピックのスタジアムを手がける直前だったと思うんですけど、タイムリーな時期に受けていただけたのは本当にラッキーだったと思います。    男性優位な社会を跳ね退けて志した美術への道 深津:ちょっと昔に巻き戻るかもしれないですけれども、多摩美に入学したきっかけを教えていただけますか。 わたなべ:私が子供だった時分は、子供であっても男女は別々の席に座らされるような時代でした。ですから、小学校の頃から男女が組になることもありませんでした。また、戦時中には東京の家も焼かれ、父も戦地に招集され生きるか死ぬかといった状態で、母の里に疎開したり香川県の軍隊のある街に小さな家を借りて過ごしたりもしました。 戦後には、生活を立て直すために父の田舎の四国で生活していたんです。ところが、四国っていうのは、九州に次いで男尊女卑の強いとこなんですよ。それでね、兄と私とでは待遇が違ったんですよ。それで私、母に訴えたんです。「私は女に生まれたくて生まれたわけじゃないのに、どうしてこんなに違うの。」って、不服を言ったんですね。 そしたら母は、「私もそう思います。あなたの言うことはもっともです。だけどね、これから世の中が変わりますよ。だから勉強しなさい。」と言ったんです。続けて、「いくら口先で男女同権って言っても、長い間、女性は男性の庇護の下に生きてきてるから、本当の意味で精神的な自立ができてない。だから精神的な自立をちゃんと考えなさい」と。もう一つは、「経済的に自立ができなければだめです。」とも言われました。 これは、「自立できるだけの手に職をつけなさい」っていう母の教えだったんです。 それで、兄が医者を目指していたので、女医っていうのもいいなと思いまして、兄の友人にお願いして医学部を見学しに行ったんです。その時、死体の解剖まで見せて下さって、医者の仕事って素晴らしいなと感じました。だけど同時に、命を扱う仕事は自分に向かないっていうのをしみじみ悟ったわけなんです。 じゃあ、次にどうしたらいいか考え直したんです。その頃にね、デザインという新しい概念が世の中に入ってきたわけです。男の人の因習も少ないんじゃないかなって。 それで私、女子美術大学を勝手に受験したんです。だけど、それが父に見つかりましてね。父は、自分の後継者が欲しかったのもあって、自分の目の適った男と結婚させるのが私の幸せって思ってたわけです。美術学校なんて行ったら嫁の貰い手がなくなるということで、許してもらえなかったんです。後から分かったんですけど、父はうちの娘が受けてるんで落としてくれと学校に頼んだほどなんです。 それでも、やっぱり大学で勉強をしなきゃいけないと思ったんですけど、共学はダメで。そんな中で許されたのが、その当時の男の人に人気のあった日本女子大。そこならいいって言うんですね。仕方がないから、日本女子大に入って一生懸命真面目に勉強してたんですけど、3年になる直前ぐらいでしたかね、たまたま三越で多摩美の学生展を見たんですね。それを見たらもう感動しちゃいましてね。素晴らしくて、「多摩美に入ろう」と思ったわけですよ。 ただ、父に知られたら、また大変なので、黙って受けたんです。そして合格後に、日本女子大に退学届を出しました。けれども恐らく父に勘当されるだろうと思い、神田で住み込みの仕事も同時に見つけて、多摩美に通う準備をしました。 手続きを全て終えた後、父に多摩美への入学を頼んだんです。案の定、父からは「僕はしらん」と跳ね除けられましたが、母がなだめてくれて、入ることができたんです。 当時、上野毛にあった多摩美の校舎は戦争で全部焼けていて、専門学校から新制大学に移行する時だったんです。大学といっても、四年制ではなく短期大学でした。デザインって言葉もまだなく図案科だったんですけど、素晴らしかったですね。お絵描きを習うんじゃなく、杉浦非水先生(1876-1965)(多摩帝国美術学校校長、図案化主任、グラフィックデザイナー)から直接指導を受けたり、建築は今井兼次先生(1895-1987)、インテリアは剣持勇先生(1912-1971)、グラフィックは山名文夫先生(1897-1980)、舞台装置は吉田謙吉先生(1897-1982)、工芸は渡邊素舟先生(1890-1986)などなど。特に多摩美に戻って来るきっかけになった霜田静志先生(1890-1973)の心理学の授業があったんです。もう本当にね、素晴らしい先生方が揃っててね、ウハウハだったんです。 vol.2~「テキスタイルとの出会いから渡欧へ」「染織デザイン専攻の設立と目指した教育」 はこちら vol.3 〜「デザイナー/アーティストとしての取り組み」「多摩美退職後の活動 シルクロード横断プロジェクトとギャラリースペース21」「多摩美生への言葉」はこちら

2024年度 多摩美術大学校友会の活動に向けて

2024年7月12日

会員の皆さま             先日6月29日に行なわれました定時社員総会2024におきまして、任意団体として旧来の組織が保有しておりました残余財産について、満場一致のもと、一般社団法人多摩美術校友会への移譲が承認されました。また、2024年度の活動計画、予算案が可決されたことで、今年度の事業が正式にスタートすることとなりました。昨年度からスタートした組織の改編と活動の継続が円滑に進められていること対して、改めて会員の皆さまに御礼を申し上げますとともに、引き続き、多摩美術大学校友会への一層のご理解とご協力をお願い申し上げます。  さて、次年度の2025年度は、多摩美術大学が創立90周年を迎え、校友会も任意団体の時期を含めて30周年を迎える記念すべき年となります。本年度はその準備を進める年となります。現在、2025年10月18日に大学での記念式典が予定されており、校友会としましても、節目となる「ガーデン同窓会」を実施する予定で企画を進めております。  周年事業に際しては、これまでも校友会から大学への寄付をして参りましたが、今後、そうした寄付金につきましても検討していくことになります。なお、校友会とは別に、大学からも卒業生を対象とした寄付金を募る計画があるように聞いております。校友会としては、改めて寄付を募ることはいたしませんが、ご承知おきいただきたく思います。  昨年度は、奨学金や芸術助成活動の拡充など、会員、準会員の活動支援に努めるとともに、新たな形式によるチャリティビエンナーレの実施、卒業生の訪問企画やHPの充実等に取り組んでまいりました。本年度は、10月12日(土)にガーデン同窓会の実施を計画するとともに、四美大アラムナイの幹事校として、美大4校をまとめることとなっております。  組織整備につきましても、いまだ道半ばであり、引き続き、持続可能な校友会、安心して次世代に引き継ぐことができる校友会の在り方を模索しつつ、今年度も活動を展開していきたいと考えております。  会員の皆さまのご理解とご支援を、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。                               2024年7月吉日 一般社団法人多摩美術大学校友会 代表理事 中村 一哉

第3回 公開研究会|石倉敏明「アートとデザインの共異体」

2024年11月29日
#イベント

日本で初めてとなった2006年の「芸術人類学研究所」(「アートとデザインの人類学研究所」の前身)立ち上げに関わり、以来、芸術人類学者としての研究活動のみならずアーティストとのコラボレーションにおいても果敢なチャレンジを続ける石倉敏明氏をお迎えして公開研究会を開催します。 大きな社会変革期を迎え、旧来的な「業界」や「共同体」を前提としたフレームには収められなくなっていくアートやデザインの諸実践を、「共異体」というキーワードによって読み解きつつ、新たな立脚点を探ります。研究会後半では、佐藤直樹所員を交えてディスカッションも行います。 日程2024年12月2日(月)時間16:30〜18:00(開場 16:10)会場多摩美術大学 八王子キャンパス・アートとデザインの人類学研究所対象多摩美術大学学生・教職員、学外一般お問い合わせ多摩美術大学アートとデザインの人類学研究所〒192-0394 東京都八王子市鑓水 2-1723 メディアセンター4FEmail:iaa_info@tamabi.ac.jp※参加自由 / 事前申込不要(当日会場にて記帳をお願いします)。※定員は40名程度。満席の際は入場をお断りする場合があります。 講師石倉敏明  Toshiaki Ishikura芸術人類学者。1974年東京生まれ。秋田公立美術大学准教授。シッキム、ダージリン、ネパール、東北日本等でのフィールド調査にもとづく比較神話学や複数種をめぐる芸術人類学の研究、アーティストとの協働制作や展覧会企画を行う。2019年、第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際芸術祭日本館展示「Cosmo-Eggs | 宇宙の卵」に参加。共著書に『Lexicon 現代人類学』(奥野克巳共著)、『野生めぐり 列島神話の源流に触れる12の旅』(田附勝共著)、『モア・ザン・ヒューマン マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』など。国際芸術祭あいち2025キュレトリアルアドバイザー。

12月5日(木)2024 Pacific Rim-Japan Stage 最終発表会

2024年11月26日
#展覧会 #イベント

12月5日(木)に、八王子キャンパス アートテークギャラリー1階にて、2024 Pacific Rim-Japan Stage 最終発表会を開催します。“Pacific Rim”は、アメリカの協定校であるArtCenter College of Designと2006年から実施している国際協働教育プログラムです。両校の学生たちが、少子高齢化問題から日本の伝統工芸まで、グローバルかつローカルなテーマを取り上げ、アート&デザインが果たすべき役割について探究し、革新的な解決案を提示します。 今年度のテーマは『Healing Light - 癒しの光』です。 ストレスや精神的負荷が増加する現代において、人間主体の照明は私たちの身体的健康と精神的幸福にどのように影響するのでしょうか。多摩美術大学とArtCenter College of Designの学生による専攻領域を超えた学際的な9チームが、日本における光と影に対する深い理解と最先端技術、生体リズムを意識したデザイン(サーカディアンデザイン)、空間に自然の要素を取り入れるデザイン(バイオフィリックデザイン)など、癒しの要素を含むデザインについて研究を行いました。学生たちが作り出した繊細な光の数々をお楽しみください。 日程2024年12月5日(木)時間14:30~19:00入場料無料場所多摩美術大学八王子キャンパスアートテークギャラリー1階東京都八王子市鑓水2-1723WEBPacific Rim Project※予約不要※英語による発表および講評

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