3歳から水墨画を描き始め、8歳より国内外の展覧会で多数受賞、12歳で中国代表としてオーストラリア訪問、15歳で米スタンフォード大学美術館個展開催と、幼少期からご活躍されてきた李 焱 さん。17歳での北京中国美術館展示は歴代最年少とされています。1992年に日本へ来日し、多摩美術大学に入学、博士課程の一期生として卒業されるまで多摩美には9年間在籍されました。近年は島川美術館、カメイ美術館、竹泉荘ホテル、南三陸ホテル観洋などで作品を展示・発表されています。そんな李 焱 さんに校友会代表として2026年度入学式の祝辞をいただきました。また、入学式当日にインタビューもさせていただきましたので、その様子をお届けします。
李 焱(Li Yan)
3歳 水墨画を始める
8歳 国内外の展覧会で多数受賞
12歳 中国代表としてオーストラリア訪問
15歳 米スタンフォード大学美術館で個展
17歳 北京中国美術館で展示(歴代最年少)
2004年 多摩美術大学大学院修了、第一号芸術博士取得
2008年 桂林市美術館で個展
2012年 古元美術館で個展
2014年 中国国家博物館で個展
2023年 Shinwa Wise Holdings 株式会社(銀座)で個展
2024年 栃木県真岡市久保講堂で個展
2025年 Shinwa Auction 株式会社(丸の内)で個展
─── 李さんは幼少期から水墨画の才能を発揮され、多くの注目を集めてこられました。そのような中で訪日し、多摩美へ入学された経緯や、当時の想いについてお聞かせください。
李:私が日本に来たのは1992年でした。
ちょうどその頃は進学のことを考えているタイミングで、もっと自由に絵を描きたいとか、もっといろいろなことを学びたいと考えていました。
3歳から水墨画を描き始め、本当に多くの先生に教えていただくことができ、とても良い環境ではありました。


左、《仙女》、1981年、水墨画、作家蔵 右、《幼少期の制作風景が掲載された冊子表紙》、1981年発行、作家蔵
ただそうした環境の中でも、やはり自分らしく描きたいとか、もっと外の世界を見てみたいという想いが芽生えてきたんです。
そうした時に、ビザを知り合いの方が1日で発行してくれて、すぐにチケットを買い、細かいことを考える間もなく、日本に飛んで来たというのが実際のところです。荷物は辞書一冊と筆だけでした。

来日した頃
当時は日本語が全くわからない状態でしたが、大勢の方が私を支えてくださり、ここまでやってこれました。あの時、「日本に来た」ということが私にとってすごく大切で、やっと自分の夢に向かって一歩踏み出すことができたと感じていました。
そしてこの機会を大事にしたいと思い、日本に来てからは日本語学校にも入り、美術だけでなく言語も学びました。
─── 思い切った行動をとられたんですね。様々な情報やツールがある今とは違い、90年代に異なる言語や文化に飛び込もうとされたことは本当にすごいことだと思います。
李:ありがとうございます。
例えば石膏デッサンや静物デッサンなどに対する考え方が、中国と日本の美大入試では全て異なっていました。そのうえ、90年頃は中国語の資料や情報がなく、先輩もいなかったので、多摩美に入った時はすごく大変でした。

入学当初に制作した作品、《人体的》、1995年、油彩、作家蔵
─── そんな中で、どうして多摩美を選ばれたのですか?
李:実は東京芸大に行った時に平山郁夫先生にご相談したんです。それで多摩美を紹介されて、受験することにしたんです。
─── 平山先生のご紹介だったんですね。一方で、それまで水墨画を描いていたのに、なぜ油画専攻を選ばれたのですか。
李:そうですね。
日本に来て、最初は日本画を勉強していました。でも、ルノワールなどの印象派の展覧会を日本で見る機会があり、その時に「わぁ!素敵だなぁ!」と、色彩の綺麗さにとても感動したんです。
その一瞬で「よし、私も!」となってしまって、油彩画を描きたいと考えたんです。
当時は油絵の道具を何も持っていなかったので、生活費を全部使って必要な道具を揃えました。だから食事ができなくなって…。でも、食事とかは大した問題ではありませんでした。それよりも、その日の感動をなんとか表現したくて、寮に戻ってすぐに油絵の自画像を描いたんです。その絵は今でも残っています。

初めて描いた油彩、《自画像》、1993年、油彩、作家蔵
そうやって描いてみると、まったく勉強したこともない新しいものを勉強したいと強く思えて、だから油画専攻に入学したんです。
─── 日本に来られた時と同じように、強い衝動に突き動かされて油彩画を始められたんですね。
そうして学部に入学し、博士課程の一期生として卒業されるまで多摩美には9年間在籍されました。その中で影響を受けた先生や、新設当時の博士課程の様子を教えてください。
李:私が博士後期課程に入ったのは2001年で、開設して一年目でした。ですから私は、博士後期課程の一期生として入学したんです。開設といっても、当時は教室も研究室もない状態で…。ですから臨時で共通教育棟(現:リベラルアーツセンター)の3階の教室を使ったんです。そこに沢山の先生たちが集まって、いろいろ話し合っていました。私よりも先生たちの方が大変だったと思います。

博士課程の制作風景、《桂林風景シリーズ・修士1年次課題制作》、2001年、油彩、作家蔵

博士課程の展示風景、《髄處作主シリーズ・修士1年次課題制作》、2001年、油彩、作家蔵
その頃、先生方の中で一番大変だったのは、「どのようにして博士号を取らせるか」だったと思います。博士号取得には絵を描くだけでなく、理論をしっかり持つことが重要です。先生たちは理論と創作をどのように指導すべきか、深く考えていらっしゃいました。
現在はしっかりとした規定があって、1年間の必要な発表回数などがありますけど、一期生だった私の時には明確な規定がなく、多い時は1年間に6回ぐらい発表をしました。同時に論文も必要だったので、毎日必死でした。こうして振り返ってみると、当時は実験のような状態だったと感じます。
また、必死に作品や論文を書くんですが、様々な先生にご指導いただいていたので、異なる意見を自分の中でまとめるのが本当に大変でした。先生方もその難しさを気にしてくださっていて、正直に相談しながらご指導いただくことができました。
例えば、博士2年の時には横尾忠則先生からこんな言葉をいただきました。
「いろんなテーマとスタイルを追求するタイプはぼくと似ています。焦らずに色々なことを試みて下さい。」
横尾先生は、当時の私の様子をしっかりと見てくださっていて、わざわざ私に手紙を書いてくれました。この言葉は今でも私を支えてくれています。この言葉があったから、私らしくやってみようという気持ちになり、今もいろいろなことを試しながら創作を続けられています。
─── 博士課程設置一年目は、横尾先生をはじめ、辻 惟雄先生、佐藤 晃一先生、建畠 晢先生、馬越 陽子先生、本江 邦夫先生、李 禹煥先生、若林 奮先生が担当され、二年目に東洋美術史の近藤 秀實先生、翌々年には島尾 新先生も着任されました。本当に素晴らしい方々が参画されていて、贅沢な時代でしたよね。
李:ほんとにそうですね。李先生や横尾先生、若林先生など、私はすごく幸せだったと思います。そんな先生方に一対一で教えていただけたんです。
授業だけでなく、先生のアトリエに伺わせていただくことがありました。
例えば、青梅にあった若林先生のアトリエに伺った時は、普段の制作の様子や雰囲気をお話を交えながら直接感じることができました。アトリエの見学だけでなく、食事もご一緒させていただき、すごく貴重な機会になりました。
同じように李先生も学生とよく交流してくださっていて、大学院の後輩と一緒に先生のご自宅で食事をいただくことがありました。でも、私たちは緊張してみんな無口になってしまったんです。そうしたら、「もっと喋ってくださいよ」と先生からみんなに声を掛けてくださいました。絵や論文を見るだけでなく、会話をすることでいろんな気持ちや考えがわかってくる。だからそうやって、李先生は学生と同じような若々しさで気さくに会話をしてくださいました。
それ以外にも、李先生との思い出はほんとにたくさんあって、ある時、李先生が私をわざわざ研究室に招いて、ものすごく真剣な表情で「作品は子供と同じ。みんなそれを大事にしないと」と仰りました。いつもはニコニコしている李先生でしたが、その時は雰囲気が全く違っていて、ものすごくドキドキしたのを覚えています。
そうしたことも含め、私は本当にいい先生と出会えて良かったと感じています。
もちろん他にもたくさんの先生方にお世話になり、論文を書く時には本江先生・辻先生・島尾先生・近藤先生、実技では馬越先生・若林先生など、多くの先生方の考え方や世界観に触れることができました。そうした経験ができたことが非常に良かったと感じています。