2001年多摩美術大学デザイン科染織デザイン専攻を卒業後、株式会社コムデギャルソンに入社、2006年には自身のブランドWhite Mountaineeringをスタートし、ヤマト運輸の新制服やLARDINI BY YOSUKEAIZAWAをデザインするなど国内外で活躍している相澤陽介さん。現在はテキスタイルデザイン専攻の客員教授も務めています。そんな相澤陽介さんに校友会代表として2025年度入学式の祝辞をいただきました。その入学式の控室にて、校友会スタッフ(多摩美卒業生)がデザイナー人生におけるターニングポイントや仕事への向き合い方を伺いました。
相澤陽介(Aizawa yosuke)
1977年 埼玉県生まれ
2001年 多摩美術大学デザイン科染織デザイン専攻(現:テキスタイルデザイン専攻)卒業
株式会社コム・デ・ギャルソンに入社
2006年 自身のブランド White Mountaineeringをスタート
2012年 ロンドン五輪日本選手団のユニフォームをデザイン
2013年 MONCLER Wのデザイナーに就任
2014年 BURTON THIRTEENのデザイナーに就任
2016年 パリファッションウィークに参加
2018年 多摩美術大学生産デザイン学科テキスタイルデザイン専攻の客員教授に就任
2019年 サッカーJリーグ北海道コンサドーレ札幌の取締役兼ディレクターに就任
2020年 ヤマト運輸の新制服、LARDINI BY YOSUKEAIZAWAをデザイン
2023年 東北芸術工科大学芸術学部の客員教授に就任
───いろいろなジャンルで世界的にご活躍されていますが、ご自身で特に印象に残っているお仕事やターニングポイントになったお仕事はありますか?
相澤:ブランドを作ったというのは、一番のターニングポイントにはなっていると思います。その中で、十数年前ですけど、東京でずっとコレクションをやっていたんですね。
いわゆる「東京コレクション」と言われる組織には参加してなかったんですけど、勝手に東京でファッションショーをやっていたんです。それをいろいろ聞きつけてくれて、イタリアのフィレンツェで行われるPITTI IMMAGINE UOMO(ピッティ・イマージネ・ウォモ)というメンズの展示会というか大きい祭典にゲストデザイナーとして呼んでいただいたんですよ。 なので、全く海外の知識がないままフィレンツェでショーをやることになりまして。
ちょうどその声をかけていただいたタイミングで、ダウンジャケットで世界的に有名な大きいブランドのMONCLER(モンクレール)からもデザイナーとして招聘していただいて、英語もイタリア語も全く喋れないままイタリアに渡り、先程申し上げたように絵を描くことでコミュニケーションをとりながら「MONCLER W」を作ることができました。
それがやはり海外での足がかりとなったので、私としては非常に大きいことでしたね。

MONCLER W
───言葉が通じない中で仕事をされたんですね!もう言葉はいらないという感じでしょうか?
相澤:いや、絶対必要ですよ!(笑)
今、イタリア語をなんとか勉強しなきゃと思っているんです。コミュニケーションが取れるとしても、例えばファイナンスのことであったり、契約のことになると、やはり間違えてはいけないので、言語の部分が自分のウイークポイントですね。だから言葉がいらないということではないんです。
ただ一方で、技術とか絵というものが言語と並ぶっていうふうに考えてみてください。なので、ひとつの言語を美大生は既に持っているわけです。そう考えると、英語・イタリア語・中国語と同じように絵が一つの武器となりますよね。
───仕事を進める中で、迷いやスランプ、しんどいと思うことはありますか?
相澤:これが“0”か“100”なんですけど、毎回辛くて、毎回しんどいんですよ。でも逆に毎回楽しくて、毎回新しい発見があるので、そこはずっと平行してクリエーションを行っていくというのが私の性なのかなと思っています。やはり一番しんどいなって思うのは、長く続けていることですね。私のブランドは設立して19年なんですけど、一つのことを長く続けているわけです。しかもそれが好き勝手できる世界ではなくて、スタッフを養わなければならないですし、常にビジネスのことを考えなければならない。ファッションの世界においては非常に早く流れるトレンドや流行というものがある中で、自分が好きなものをずっと作り続けていくことがそのビジネスの足かせになる場合があります。かといって、そのトレンドに乗ってしまうと自分ってものが何なのかわからなくなる。そのシーソーゲームみたいな中で、ずっとやり切っていくっていうことが非常に難しいんですね。
でも、もう仕方がないことなので、それをどう楽しむかというか…。あとはもう、もともとファッションを勉強してなかったというのも逆に強みで、いつ辞めてもいいやぐらいの気持ちを持ちつつ、意地でも続けるみたいな、そういうスタンスは持ってます。
───しんどいなと思った時の息抜きの方法はありますか?
相澤:そうですね。日常的に考えると今でもバンドをやっていたりするので、僕はベースを弾くんですけど、仕事をやってる中で楽器を弾いて気分転換をしたりとか、音楽を聴いたりとかありますけど…。
コロナになるタイミングでですね、ヨーロッパの仕事が全部止まってしまったんですよ。パリのコレクションもできなくなって、今まで月に一回くらい何らかの形で海外の仕事があってミーティングなどで飛んでいたんですけど、それがゼロになりました。そのタイミングで自分の生き方を変えようと思って、軽井沢の方にアトリエを作ったんですね。僕自身がそのアウトドアウェアをベースにファッションに昇華させていくであったりとか、趣味がスノーボードとかサッカーの仕事をしていたりとか、アクティブなものが多いので、自分が作ったそういったものを試す場所が必要だなと。
なので今は自分が洋服を作ったら、そのまま軽井沢に持っていって、オートバイに乗ったりとか、その裏山に入ったりとか、自分がやってきたことっていうのを生活のスタイルの中に入れることによって、リフレッシュするっていうのはすごくあります。
───確かにコロナ禍では、多くの人たちが新しい取り組み方を見出せたチャンスでもありました。他にも大きな転換期や挫折の時代があったのでしょうか。
相澤:挫折というか、コム・デ・ギャルソンに入って、私は約5年、厳密に言うと4年8ヶ月働きまして、正直燃え尽き症候群というような状態でした。その期間が自分の人生にとってものすごくインパクトがあったんです。素晴らしい会社ですし、今でも前に進んでますし、影響力もすごい強い会社です。ただ、自分が先程申し上げたように洋服を作ったことがなかったものですから、そのテキスタイルであったり、企画力であったりっていうので頑張ってはいたんですけど、27、8才の頃にやっぱり気持ちが押しつぶされる時っていうのがいっぱいありました。それで急に辞めてしまったんですよ。何の計画もなく辞めて、今でも自分の中では大事な時間だったんですけど、簡単に転職するっていう気に全くならなくて。やっぱりファッションの世界に入ったんですけど、コム・デ・ギャルソンで働いた自分っていうのとか、環境っていうのが特別だったんですよ。だからファッション業界に入った感覚がなくて。
そうした状態ではやっぱり同じ業界内で転職できないので、地元に帰ることにしました。地元は埼玉の所沢なんですけど、仕事をしてないなってことで地元の仲間に声をかけてもらったんです。
当時、その仲間がやっていた仕事というのが、何ていうのが正しい名称か分かんないんですけど、“はつりや”っていう工事現場でコンクリートを削る仕事なんです。彼らがその会社をやっていて、僕は辞めて数日後に「寅壱」みたいな、いわゆるニッカポッカを履いてドリルを背負って工事現場にいました。なのである意味で、それがファッション業界からの一回目の挫折かもしれないですね。
─── 一回目ということは二回目もあるのでしょうか?
相澤:二回目はもう常日頃ですよ。もう、なんだろうな、一回も上手くいったとか、成功したって思ったことがなく、単純にいろんな人がちょっとずつ理解してくれただけであって、自分としては何かを成し遂げた感じというのは一つもないんです。
初めて挫折したのはギャルソンを辞めた時だったと思いますが、それからは何をやるんでも上手くはいかないので、挫折することを前提にして、その中で常に自分をどうどういうふうに鼓舞するかっていうのを考えて今までやってきました。
───今のお話は輝かしい経歴とは対照的でとても意外です。真摯に生み出すことに取り組まれているのだと思いました。
相澤:僕が一番気をつけているのは、自分ができることとか、やらなきゃいけないことを押し付けないということなんですね。それはなぜかというと、“0”か“100”かで物事を考えてしまうと、“俺の世界観はこうだ”とか、“俺に仕事を頼むならこうだ”となってしまう。本当の目的っていうのが見えなくなってしまう。
例えば、今日の大学の祝辞でもすごく私なりに考えましたけど、今の学生は何を求めているのか。大学にいるこの4年間が終わった後、その時間の中で何を考えて、どういう結果が出るのか。どういうことを学んでいけばこういう風に繋がっていくのかっていうのを伝えたいと思ったんですね。
なので自分のことというよりも、学生がどういうことを求めるかっていうのを常に大学の授業でも思ってます。私はサッカーチームやユニクロ、あるいはデザインとは全く関係ないヤマト運輸であったりとか、いろんな企業と仕事をしています。
そうした時、やはりどこの部分がゴールなのかっていうのを見極めながらデザイナーの力を使うっていうのが僕の中での正解なので、そのことをいろんな人に伝えられるといいなと思います。デザイナーはそんなに偉くないし、クリエイターというのはそんなにすごいものを持っているわけじゃないんですよ。何か大きな勘違いをして、アーティストだったりとか、特に今はすごくインスタントに物事を作ることができますよね。製品でもそうだし、情報もそうです。特にこのSNSの時代になって、自分が何かを成し遂げるとか、何かできているとか、人より素晴らしいっていう勘違いといったものがモノ作りに最も邪魔だと思うんですよ。
なので常に自分は何かよりも劣っている、何か失敗するんじゃないかっていう恐怖心と、前に進んでいく推進力、この2つを併せ持つってことが、長く活動していく中ですごく重要に感じています。


北海道コンサドーレ札幌2025 ユニフォーム
───Instagramを拝見させていただいて、朝ごはんの写真がものすごく美味しそうでした。仕事以外で熱中していることや、継続してきたこと、相澤さんの人生における遊びや楽しみについて教えてください。
相澤:ありがとうございます。(笑)
趣味は多分めちゃくちゃ多いんですよね。ほとんど遊んでるんですけど。なんだろうな。挙げてみると、例えばバンドをやったり、オートバイに乗ったり、料理を作ったり、仕事の中でインテリアを作ったりとか。基本的に全部趣味の延長が仕事になってきたっていうのは、すごくありがたいことです。
好きなことが先にあって、それが仕事になってますね。よく仕事が趣味っていう人いるじゃないですか。僕は全然そういうことじゃなくて、趣味だったものが仕事になったので、必然的にそれが趣味みたいな流れっていうのが多いかなと思いますね。
あと、朝ごはんについてはですね、妻との互いの働き方を考えてやり始めたことなんです。私の妻は多摩美の同級生なんですよ。同じ染織デザイン専攻で、今は彼女も自分のブランドを始めたりとかしていて、また子供も3人いる中で、共に子育ても含めてやっていくって考えた時に、自分ができることってなると朝の仕事だなと思って。
料理が趣味になったこともあり、それを毎日やってる感じですね。
vol.3の公開は7月31日(木)を予定しています。楽しみにお待ちいただけると嬉しいです!